当たり前は、当たり前ではありません。
単純 素直で時々わがままです。
こう聞くと、子供のことのようですね。
これは、体のことです。
身体は単純、素直で時々わがままなのです。
子供だって、褒めてあげればうれしくて、得意げにもっと見てとばかりに張り切ります。
叱ってばかりだと、シュンとなって落ち込みます。
身体も似たようなところがあります。
きちんと、体や心が喜ぶことをしてあげると、良くなり続けようとしますし、良くなる方向を向きます。
しかし、逆に体や心にとって辛いことばかりだと、辛くなろうとしますし、悪くあり続けようとします。
思いのほか、体は単純で素直なのかもしれません。
「辛くて当たり前」は当たり前ではありません。
当たり前と思っていても、案外思い込みなだけで、当然ではないのかもしれませんね。
「くび」はどこ?―ネックレスは、首飾りではなく頸飾り。
当院には「くび」の痛みや辛さで来院される方も多いです。来院主訴数で言えば1位か2位かという所でしょうか
ところで「くび」とはどこを指す言葉かご存知ですか?
私たちは、「くび」と一概に言っても、その症状によってその「くび」の位置の捉え方が変わってきます。
「くびが辛くて」という頸は頭と胴体をつなぐ細い部分のどこかがツライということですよね。
頸の痛みの原因を探す一つの手がかりは、筋肉そのもの、もしくは筋肉のつながりです。
ちなみに、頸の筋肉を後ろから見たとき、背中のどの辺りまで延びているか想像できますか?
それは、少なくとも「肩甲骨の下辺りまで」は延びています。
結構、長いですよね。
例えば、首が回らなくてといういわゆる寝違いの症状。
鍼の施術ポイントの一つか背中、とくに肩甲骨の下の辺りにあります。
それは、頸の筋肉が背中、肩甲骨の下あたりまで延びている筋肉を刺激したいからです。
他にも、アナトミートレインと言って、筋肉を包む筋膜の繋がりで見れば、首の筋肉は足の裏までつながります。ということは「頸の筋肉は足の裏まで」ということも言えます。
一言で頸と言っても、その範囲は全身に及びます。
いざ治療や施術となると、そのツライ部分ばかりを見ていては、本当の原因を見逃してしまうものです。
ツライや痛いにも原因があります。
その原因となっているのは何か、何処かを探ります。
頼りになる一つに、筋肉の位置やその流れがあります。
ちなみに、一般的には「首」と書く漢字も私たちは「頸」と書きます。
同じような意味合いでも、漢字の意味としては厳密には違うようです。
首も頸も共通の意味としては、頭と銅をつなぐ細くなっている部分のこと。
厳密には、「首」とは頭と銅をつなぐ部分を含めそこから上の部分。
つまり、いわゆる「くび」だけではなくて頭も含める意味だそうで。
では、「頸」はと言うと、頭と胴とつなぐ細くなっている部分だけを指すようです。
普段使う「くび」は、本来「頸」の字なのですね。
そうすると、ネックレスは首飾りではなく、頸飾りと書くのが相応しいことになりますね。
まぁ、普段の生活では全く必要のない雑学でした。
「日常から解放される」は本当に大事。
ストレスの解消方法はありますか?
私は、日々日常からいかに解放されるかばかり考えています。
それは、ちょっとした日常から解放で、いかに体か癒されるかを、つねづね感じているからです。
どれほど好きな仕事でも、やりがいのある仕事でも、続けていくことでやがて行き詰っていくもの。
行き詰まりは心と体の淀み。
流れの良い体が理想です。
体の不調や痛みの原因の多くは、日々の疲れが原因の体の淀みによるもの。
毎日の仕事や、家事のストレスから解放されたら、体が楽になるのは分かっていても時間も心の余裕もない、という方も多いのではないでしょうか。
小さな子供は、目も手も離せないですし、残業続きの週末は、寝ていたいですものね。
私たちは、忙しない仕事や家事を辞めたらきっと楽になるのに。
でも、辞めるわけにはいかないのが現実。
私たちの日常は、仕事や家事ありきですものね。
ちなみに、私の日常からの解放はー。
少し空いた時間を見つけて、自転車で行くことのできる、大きな公園のベンチで、ボ~っとすることです。
大きな木の葉っぱが擦れる、「カサカサッ」という音を聞いているだけで、何かがフッと解放されるような気がします。
そうしたときに「あぁ。日常から離れるって本当に大事。」と、つくづく実感します。
わざわざ遠くの温泉へ行かなくても、フッと息を抜くことのできる、そんなちょっとした日常からの解放の時間を持ちたいものですね。
多汗症という病気をご存知でしょうか?
多汗症には、全身性の症状と体の一部に汗が増える局所性のものがあり、原因のわからない原発性のものや、感染症内分泌代謝異常の合併症として現れるものなどがあるとされています。
鍼灸院に訪れる患者さんのほとんどは、肩こりや腰痛などに付随した症状で来られる方がほとんどです。
しかし、なかには「多汗症なのですが、鍼灸で治りますか?」と来院される方もいらっしゃいます。
その病気を、施術したことのない鍼灸師に身を任せるのは不安ですよね。
ですから、そのような方には、私が今まで経験した実際に施術した方たちの経験談の話をさせていただいています。
『今まで、キーボードを打つのにも、常にハンカチを持って、拭きながら仕事をしなくてはいけないほどの方や、手のひらの発汗が大量で、握手や手をつなげないほどの方に鍼灸で施術をしたことはあります。
鍼灸をしてゆくと、皆さんがおっしゃるには、「症状がゼロにはならないけれど気にならなくなった。」という効果を言われます。
「そういえば、今日仕事をしていてハンカチを使わなかった。」なども言われます。
唯、緊張した日や疲れた日には症状が前ほどではないけれど出現するようです。
治ったというよりは、気が付いたら気にならなかったという方が、多いように思います。』、と。
私が対応した方は、原発性局所多汗症と言われる症状の方ばかりです。
「治る」とは言い切れませんが、気にはならなくなるほどには症状は改善するようです。
「改善するようです。」などと他人事のような言い方ですが、あくまでも治すのは、患者さんの免疫力や自己治癒力です。
鍼灸はその後押しやきっかけ、方向付けをするものだと思っています。
ですから、施術だけでない私生活でも行っていただきたいこともあります。
そうすることで、多汗症の症状は、落ち着いてくるようですよ。
就寝時、いろいろ考え込んで眠れないときには。
良い睡眠をとることは健康への第一歩です。
しかし、いざ布団に横になって眠ろうとしても、「体は眠りたいのに頭の中だけ興奮してしまって、眠られない時がある。」という方は案外多いように感じます。
そのような方に、ちょっとしたアドバイスです。
- お布団の中で仰向けになる。
- 次に、閉じた瞼の上に数枚のタオルを置いて、眼球を圧迫する。
ただこれだけ。
そんなことだけ?と思われるかもしれませんが、案外これくらいでも落ち着くものですよ。
少し余裕があるなら蒸しタオルにしてもよいかもしれませんね。
その際は、乾いたタオルの上に蒸しタオルを置いて、布団を濡らさないようにすると良いかもしれません。
更に、瞼を圧迫して温めることは、上瞼の筋肉上眼検挙筋を刺激して副交感神経を刺激するスイッチになります。
発生学的には、眼球の底の網膜は脳(間脳)の突出したものですから、網膜は脳の一部です。
もちろん、全身の血流を良くすることが大前提ですが、眼を温めて脳の血流を良くすることで、脳内で幸せホルモンであるβエンドルフィンが増えます。
幸せホルモンで「気持ちがいいな。」「心地いいな。」に包まれて、少しでも眠りやすくなるといいですね。
自律神経コントロール「体を温める」
忙しすぎて、疲れきっていませんか?
体調が悪くなっているのにも気が付かないで、体調が悪くて当たり前になっていませんか?
忙しくて、体調が良くなくて当たり前、酒を飲んで寝れば大丈夫と思っている。
昔から足が冷たくて当たり前と思っている方。
それらは、当たり前の体の状態では無いですよ。
体の体調を改善しようとしたら、自律神経の調子が整わないことには変わってきません。
自律神経の調子が整うと、いろいろな症状が改善されます。
特に、来院されている方からお話を伺うと、交感神経が緊張している症状の方が多いようです。
交感神経と副交感神経はシーソーのようなもの。
交感神経の緊張を和らげるのには副交感神経を優位にすることです。
副交感神経が優位になりやすい体はリラックスしやすい体にすること。
そして、自律神経のバランスを整えるのに、最も身近でお手頃なのが「体を温める」こと。
「体を温める」と副交感神経が優位な方向に向きますよ。
体を温めて、リラックスしやすい体、自律神経の交感神経と副交感神経のスイッチングが滑らかな体になって「あぁ、今日も調子悪い。」から解放されたいですね。
日々是好日に思うこと。
時々、すとんと腑に落ちる言葉に出会うことって、ありませんか?
『日々是好日』という言葉、素敵だなぁ、と思うのです。
『毎日いい日が続いて結構なことだ』と言う、読んで字のごとくではなく『こだわりや、とらわれをさっぱり捨てきって、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地』という意味合いだそうです。
振り返れば、「今の自分はいろんなことに囚われているなぁ。」と感じたり、しかも、それが自分の勝手な思い込みであったりするから、「自分を客観的だとか、俯瞰してみるって難しいなぁ。」と感じてしまったりするわけです。
唯、ありのままの自分でいられるって素敵ですよね
「こうならなければいけない自分」とか、勝手に決めつけてしまうのも自分。
いろいろな悩みがあるけど、「結局ほとんど自分で自分を苦しめてしまっているのかなぁ。」などと思ってみても、また明日になると、大概の悩みは忘れて、昨日と変わらないから、「うーん、人というのが成長するのは、なかなか難しいぞ。」と思ってしまうわけです。
それでも、日々是好日でありのままに…というよりは、「まぁ自分はこんな感じだろう。」という感慨でもって、日々を過ごすことになるわけです。
とても悟りは開けそうにないですが、「背伸びせず、まずは目の前のやれることをコツコツと。」
これも、日々是好日に続くに続く道でしょうか?